「そろそろ諦めてはいかがですか?」

 少女の背後で聞こえた声色は優しく柔らかかった。 しかし、今の少女にとってはその台詞は冷たいものとしか思えない。 星の輝きを絹糸にしたような銀色の繊細な髪を揺らしつつ、彼女は何度も首を振る。
「いいえ。絶対に“時”は来ます。女神が紡いだ神衣はもうこの手にあるのですよ?  だから次は洗礼を受けた方がきっと現れます」
 少女の前には目を閉ざしたまま柔和に微笑む女性の像があった。 彫像と同じような純白のローブに身を包んだ彼女は、意志を曲げようとせずぐっと白い手を握り締めた。

「良い兆候はありますがね。各神殿にはもう神の化身は現れてますから。ここの女神の力は強くはない。慈愛、慈悲、博愛、家族。そんな力、平和な世の中なら良いですけど戦いには要らないものです。お判りですか、巫女姫ルシア殿?」
 あご下のひげを綺麗に整えた男は腰にぶらさげている愛用の剣を撫でつつ、少女を諭すように言った。 ルシアと呼ばれた巫女は言葉を探すように唇を噛み、男を見上げた。

「要するに貴女は民から愛され、何時も通り女神の祝福をあたえ続ければ良いのです。戦いに加わる必要はありません」
「でも、でも私はっ……」
 ローブの上質な生地にも勝る、白く滑らかな肌を少し赤くしつつルシアは唇を噛んだ。 男の言っていることは正しい。 恐らくこの神殿が祭っている女神の化身が現れなくても、この状況は打破できるだろう。
「民の心を反発に向かわせないこと。それが貴女の役割です。後は我が神殿が選んだ者にお任せ下さい……では」
「待って下さいダーウィン様! もう少し時間を……」
 ルシアは声を強めて去ろうとする男に懇願するように頭を下げようとした。 しかし彼女が見ることが出来たのは男の背中だけで、顔を合わせることはもちろん、返事を貰うこともできなかった。

 都市サンチェストはエルド大陸の中央に位置し神の守護を受けている街だ。 栄光と誇りを司り、忍び寄る闇と魔を打ち払う神セルア。 知識と豊を司り、魔法を人に託してきたと言う神ラッセル。 慈悲と自愛に溢れ、人々を常に見守り癒し続ける女神ディアラル。 この三神の神殿が街の東、西、北とそれぞれ建っていた。 南という方角はかつて魔王とその僕が出てきた門に通じると言わており、人間を守りつつ神達はこの方角を監視し続けていると言われている。
「ディアラル様。教えて頂けませんか? 闇が迫ってきているのですか? だから神衣を私に授けたのですか? なのに貴女の祝福を受けた方が現れないのは何故なのです?」
 高い天井に吸い込まれるようにルシアの小さな声は響き消えていく。 当然女神は答えない。 ルシアは手荒に扱えば折れてしまいそうな肩を落とし、歩き出した。

(駄目、頼っては駄目なのだわ。私がしっかりこの手と足と目を使い、探さなくてはいけない。 そう……これはディアラル様が与えてくださった、未熟な私に対する試練。 私が必死で探せばきっと答えは見つかる、そうでしょう?)
 女神に愛される美しき乙女。 その白い手で神からの慈悲や力を民に与え、平和の祈りを捧げる巫女。 良く言えばそうなる。 悪く言えば信仰と利益という籐で編み上げられた籠の中に閉じ込められた鳥だ。
(大丈夫よルシア。ディアラル様はいつだって私を守ってくださるわ。 私が足を一歩踏み出せばきっと何かが変わるはず)
 ルシアは女神像を見据えた後、軽やかにその身を翻して眩しい光が差し込んでくる入り口に向って歩き出した。 大丈夫だ、他の神官たちもきっと認めてくれる。 強い思いを胸に秘めて歩みを進めていく巫女の顔は、決意の表れか輝いて見えた。

(何もかもが上手くいくわ。だから闇の囁きなどに負けてはいけない)
「……うぅ」
(全て私の心がけ次第よ。次はきっともっと良い未来が待っているもの)
「……うーん」
(闇の声なんかには……え?)
 誰もいないはず。 しかし男のうめき声がルシアの耳に入りこみ、彼女を驚かせた。 足が全て隠れるほど長いスカートの裾を踏むことなく、ルシアは女神像を見るように振り向いた。

 女神ディアラルは未来を予知する力があるといわれている。 心優しき女神は災いが起こるたびに、涙を流し悲しむという伝えもあった。 ルシアが先ほど見た女神像の右目からは頬へと赤色の水滴の流れを作っていた。
(血の涙!? それほど恐ろしいことが起こるのですか?)
「……いって」
(先ほどから聞こえている声は私を導くため? でも)
 女神のわりには低すぎる。 導いてくれる偉大なる存在をこの目で確かめようと、ルシアは青く澄んだ瞳を動かした。 目線の高さにはあるものは先ほどから何も変わらない。 ただ、異様な場所が一箇所だけあった。

 血の涙で出来た女神像の赤い筋は床まで続いており、その女神の足元に何かが転がっている。 空気に触れて少しずつ黒くなっていく赤い水たまりの中に顔を伏せるように倒れている何か。 それが先ほどからうなり声をあげているらしい。
「あのー…………」
 何と声をかければ良いのか。 ルシアは取り合えず倒れている男に呼びかけた。

(オレの人生って何なんだろ?)
 夢か現実か区別のつきにくい薄い意識の中で裕也は自身に問い掛けた。 努力して運も味方につけて医学部に入学した。 そこで人生全ての運を使い果たしたとでも言うのだろうか?  大学にいた時は順調だった。 しかし研修医になってからは周りの人間に振り回されてばかりいる。 それが嫌で実力をつけようと大きい病院にいきたいと願いを出したのに。 気がつけば田舎へ追いやられている。 そして気がつけば道に迷い、石像に頭をぶつけて気絶する。 顔は冷たい床と口付けしており、頭は痛い。 口の中に血の味が広がっている。 どうも情けなさで涙が出る代わりに鼻血が流れているらしい。
(口の中……気持ち悪いな)
 血液が口から喉に流れていき中途半端な所で留まる感触は不快だった。

「あのー…………」
 更に追い討ちをかけるように裕也を呼びかける声がした。
(何だ。アレか? こうなりゃオレを不法侵入者ということでトコトン不幸にしようって考えか? 鼻血は止まらないし床は冷たいしでホンット最悪…………え、床?)
 今裕也が不本意ながら這いつくばっていた場所は間違いなく床だ。 だが、確か気絶する前は屋外にいたはずである。 しかも噴水の中心部に向けて倒れていったので、水浸しになっていないのはおかしい。
(不幸中の幸い、なのか?)
 取り合えず返事をしなければ格好悪い。 裕也は床に両手をついて顔を上げた。

 目に飛び込んできた情報は彼の思考を止めるには十分だった。 まず場所。屋内である。 庭の噴水の前で石像に頭をぶつけて倒れていた記憶はしっかりと残っている。 何故、このような場所にいるのか。
 次に目の前にいる少女である。 確かに言葉を失うほどの美しさ、と形容される容姿であろう。 だが髪の色は銀色、瞳は紺色、服装はウェディングドレスが一番近いであろう服だ。
「……血がこんなに。止まってはいるようですけれど、ご気分は大丈夫ですか?」
 どうやら優しい気配りができる少女らしく裕也に話しかける。

(いっそこのままずっと倒れていりゃ良かった)
 どういう状況なのか全く飲み込めない裕也は意識を失うふりをしようと考えた。 だが目が合ってから急に気絶をするという演技力と度胸と勇気は、残念ながら彼には無い。
「いや、まぁ、えー……っと。いえ、はい……そういうわけでお気遣い無く」
 声帯を震わせて出てきた音は最初は全く意味を成していなかった。 大事無いと言えるまででできた相づちは、彼がよく使う単語だった。
「失礼ですが、お名前を教えていただけますか?」
 少女の目は真剣だった。 美人が真剣な眼差しをすると、怖い顔の人より威圧感があるという。 今までは実際にそんな美人に会いたいものだと笑い飛ばしていた北川裕也三十歳独身。 口では軽く言いのけたが現実で起きた時は硬直しか取る手段が無かった。
(何だ、オレが一体何をした? 結婚式場に間違って侵入して不審者で掴まったのか?  ああ、何か花嫁さんは正体不明そうだしコレじゃあきっと、警備の人も怖い人でオレはどうなるんだろう?)
 人生、良いことが無かった。 裕也は頭の中にあるだけの思い出を振りかえりながら溜息をついた。

「お名前は……?」
 少女は再び裕也の名前を聞く。
「……キタガワ、ユウヤ」
 裕也の頭の中はこれからの己の処遇のことが占めており、声に心はなく棒読みである。
「ユーヤ、ですか?」
「エエ、名前はそうですが……?」
 名前の確認作業に裕也は素直に応えた。 こういう場では嘘をつくと悪化するという鉄則が彼の中には作られていた。 よって偽名を使うなどということは、この時裕也の頭の中には無かったのだ。

「あぁ……ようやくお会いできました。貴方をずっと私はお待ちしていたのです」

 当然、少女が感動のあまりに紺色の瞳に涙を滲ませている理由など、知るはずもなかった。